2017年5月26日金曜日

福島県の焼き物2

会津本郷焼について1

会津本郷焼について第1回目のお話です。
この写真の碗は、会津本郷焼の伝統を汲む、現代の窯元紋平窯「流紋焼」の抹茶碗です。
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗

会津本郷焼という名称
昭和44年(1969)刊行の「會津本郷焼の歩み」に分かりやすく記載されていますので、以下に直接引用しています。
「これが会津本郷焼と呼ばれるようになつ(ママ)たのは比較的最近のことで、藩政期には本郷焼の名で近在の人々に親しまれ、明治期にはいってからは会津焼として広く日本国中の人々に知られてきた。会津焼は本郷焼だけでなく、いまは絶えてしまったが、のちに本郷焼から分かれた若松の蚕養焼や安積郡福良の福良焼などを含み、さらにこれらと同系統に属した岩瀬郡長沼の長沼焼や同じく勢至堂の勢至堂焼なども、広くいえば会津焼にはいる。会津本郷焼という呼称は、これらの会津焼の中心として一頭地を抜いている伝統の本郷焼の地位をあらわすものとして、また内外の呼称を統一するものとして、誠にふさわしい。」(会津本郷陶磁器業史編纂委員会1969,p3)
会津本郷焼の所在地
現在の福島県大沼郡会津美里町に窯が所在します。会津美里町は、平成17年(2005)に大沼郡会津本郷町と会津高田町と新鶴村が合併して出来た町です。
東隣の会津若松市にはかつて瓦窯が存在しましたが、その後昭和前期に途絶えてしまいました。現在は、「会津慶山焼」として復興しています。「会津慶山焼」については後日のご紹介になります。

本郷焼の前身

安土桃山時代の天正20・文禄元~2年(1592~1593)、伊勢国より陸奥国会津に移封(いほう)されたキリシタン大名の蒲生氏郷が、鶴ヶ城(旧黒川城、会津若松城・若松城)の修理・改築の際に、南青木組小田村(現在の会津若松市門田町黒岩)で城に葺く素焼きの瓦を焼かせています。
瓦工は石川久左衛門ほか3名が播磨国(現在の兵庫県南西部)から招かれています。
ちなみに城の名は、蒲生家の家紋「舞鶴」と蒲生氏郷の幼名「鶴千代」から付けられたものです。
雪の後の「鶴ヶ城」訪問時
雪の後の「鶴ヶ城」訪問時

本郷焼の陶祖となる水野家

仙道筋長沼(岩瀬郡長沼町、現在の須賀川市長沼)では、尾張国瀬戸(現在の愛知県瀬戸市)の陶工である水野源左衛門が、弟の長兵衛と共に窯を開き陶器類を生産していました。
長兵衛はのちに瀬戸右衛門と改名します。名前に「瀬戸」が付きました。
そして気になることが「長沼」です。昭和初期に絶えてしまった「長沼焼」の所在地です。近代の長沼焼の印判手はかなり気になる存在です。長沼焼については機会を見てご紹介します。


本郷焼の始まり

江戸時代の正保2年(1645)頃に、会津藩主の保科正之(会津松平家初代で徳川家康の孫)によって、長沼から水野源左衛門が招かれて、陶器の製造を命じられたと考えられています。これが本郷焼の始まりの元となっています。
その後、若松徒ノ町井上浄光寺に仮住まいし、陶土の調査を行っています。
そして、この付近で小さな窯を築いて、試し焼きを行ったと考えられています。
正保4年(1647)には本郷村に移住して、本格的に茶碗・水指・香炉・人形などの生産を開始しました。本郷焼の始まりです。
さらに瓦焼きの窯場も本郷に築かれています。
水野源左衛門が亡くなった翌年の慶安元年(1648)には、長沼から水野源左衛門の弟の長兵衛が招かれています。
そして、城の脆弱な黒瓦に代わって、寒さに耐える釉薬を施した赤瓦を新たに作り出しました。

本郷焼の発展

延宝7年(1679)に江戸の浅草で陶法の伝習を受け、水簸によって陶土を作ることを始めたので、良質な陶器の生産が出来るようになりました。
本郷村の絵図には、それまで「瓦作家(かわらづくりや)」と描かれていたのに、天和3年(1683)には、「瀬戸屋」と描かれるようになっています。瓦以外にいわゆる粗物(そぶつ)と呼ばれる主に庶民用の甕・擂鉢・徳利が焼かれていたことが、そのことから分かります。

本郷焼の磁器焼成

本郷焼の陶器は徐々に品質が向上していきましたが、瀬戸の陶器や肥前系の磁器製品に比べると、だいぶ見劣りがしたとのことです。
そこで藩は安永6年(1777)、磁器の製造を始めるため、江戸から陶工の近藤平吉を招いて召し抱えます。
そして、瓦役所定番の佐藤佐吉の長男円治と二男の伊兵衛が白磁の製造を志していたので、他の者と共に近藤平吉から伝習させました。
ここでおかしなことに気が付きます。磁器を作るのに陶器の職人を招いているのです。
肥前では磁器製造技術の流出を防いでいました。磁器職人を招くのは無理だったので、仕方なく陶工を招いたのですね。
結果として、近藤平吉は元々陶器の「楽焼」が専門だったので、磁器の製造に通じていなくて失敗し、数年後には御役御免になっています。
その後は、佐藤伊兵衛が染付の茶碗を作ることに成功し、せっ(火へんに石)器質(半磁器)の製品まで作ることが出来ています。
しかし、肥前系の磁器の出来には遠く及ばないので、藩の援助のもと、寛政9年(1797)に36歳で焼き物の産地に技術の視察を兼ねた旅に出ます。
江戸、志戸呂焼、瀬戸焼、織部焼、常滑焼、美濃焼、信楽焼、京焼などを経て肥前有田に入ります。
有田では技術の流出に厳しい取り締まりをしていたので、万全の態勢で潜入しています。
ここで、土(陶土)ではなく白石(陶石)を砕き、粉にして磁器を焼いていることなどを知ります。
さらに、長崎、小倉、下関、萩焼、備前焼などを見て回り、大阪、京都楽焼で修業し、江戸を経て、会津に寛政10年(1798)帰国(帰藩)しました。
寛政11年(1799)には、石焼(磁器)製造のため役場を設置し、佐藤伊兵衛を瀬戸方棟梁として体制を整えます。
そして寛政12年(1800)、肥前磁器風の丸窯を築いて技術を取り入れ、白磁焼成に成功しています。
ただし、たいがいの磁器製品は還元焼成(窯内に酸素が足りていない状態)で焼くのですが、当時は酸化焼成(窯内にじゅうぶんな酸素がある状態)だけの技術しかなく、製品は肥前系に比べると劣るものでした。
なお肥前系以外の磁器の焼成は、文化4年(1807)に瀬戸で加藤民吉が白磁化に成功しています。

佐藤伊兵衛の受難

瀬戸方は町奉行の支配下にあるのですが、奉行の悪事を訴えるために文化元年(1804)、伊兵衛は瀬戸方を辞職してしまいます。
訴えた結果、奉行は有罪となります。伊兵衛はというと、奉行を訴えた罪で耳と鼻を削がれる刑に処されました。
なんとういことでしょう。

佐藤伊兵衛のさらなる活躍

しかし、伊兵衛は改めて職を命じられて、さらに白磁の製造に貢献していきます。
生来の職人だったのですね。

本郷焼の磁器と陶器

伊兵衛の活躍のおかげで、本郷焼では陶器の製造から磁器の製造へと多くが転向しました。
そのなかで一部が陶器の製造のまま残っていきます。
ここで「会津本郷焼」は磁器(白磁)と陶器(粗物)に分かれたのでした。

会津本郷焼の明治時代

幕末の戊辰戦争では会津本郷焼も多大な被害を受けてしまいましたが、陶器生産の窯元である宗像窯を中心に復興していきます。
そして明治5年(1872)、唯一の磁器の窯元となった佐竹富太郎の弟の富三郎が分家し、富三窯を開窯しました。
当時の富三窯の代表的な製品は、南画風の山水画を描いた染付茶器のセットです。
明治時代の初期は人工的に作られた顔料のコバルト青(ベロ藍)による型紙摺りの絵付、いわゆる印判(手)が各地で始まった時期です。
会津本郷焼の印判手に関しては後日のお話になります。その時には、他の磁器の多くの産地と同様に、熊本県天草下島の「天草陶石」の購入と使用についても考えていきます。
会津本郷焼では明治13年(1880)、顔料に合成呉須(ベロ藍。コバルト青)の使用を始めています。他に比べて少々遅い時期の導入です。
それまでは天然呉須(酸化コバルトが主成分)を使用していたということですので、明治になってからも江戸時代的な染付が行われていたのでしょう。

本郷焼の繁栄と現在の骨董的流通量

「明治初年には会津本郷焼を京・伊万里ものと称して売つ(ママ)てもなんら怪しまれなかつ(ママ)たという。」(会津本郷陶磁器業史編纂委員会1969,p6)
富三焼のことでしょう。
「明治中期から大正初期にかけての全盛時代の本郷には、富三焼のようなすぐれた白磁を製作する窯元はたくさんいたし、また川綱氏のようなすぐれた陶画家も幾人もいた。」(会津本郷陶磁器業史編纂委員会1969,p218)
それならば、この時の製品は現在の骨董品の流通にも反映されているはずです。
しかし、「古伊万里・伊万里」製品ばかりで、本郷焼と紹介している製品はなかなか見当たりません。どこに行ってしまっているのでしょうか?
本郷焼の窯は発掘調査されていないため不明な点が多いことから同定が出来ず、現在はこのようなことになっていると思われます。
会津本郷焼系といわれる「蚕養焼(こがいやき)」の窯が存在した会津若松市では、昭和58年(1983)と平成26年(2014)に宅地造成などのため発掘調査がされ、「蚕養窯跡発掘調査概報」「蚕養窯跡発掘調査報告書」と「蚕養窯跡」として刊行されています。
これによって、磁器を焼いていた蚕養焼の解明がだいぶ進んでいますが、骨董品としての「会津本郷焼」と「蚕養焼」との区別は、ほとんどにおいて明確になされていません。

追記2017.12.31
先日、須賀川市の長沼焼・勢至堂焼、郡山市の福良焼の地、会津若松市の蚕養窯跡を訪れてきました。この成果は2018年1月中に投稿しようと思っております。
ここでまた19世紀江戸時代後期からの磁器生産が大いに気になるところです。
古伊万里・伊万里として世に出回っている「そば猪口」の中で、実は会津本郷焼のものが割合までは分かりませんが結構あります。
そば猪口は口縁に鉄釉(いわゆる口紅)を施し、外面の文様は山水が多く、見込みの文様は島のものが代表的です。
また、見込みの文様は、宮城県加美郡加美町(旧宮崎町)の切込焼(きりごめやき)に似ている(松岡 2003)とありますが、その切込焼には島・岩・波・雲・鳥・家屋などがあります。
磁器製品のみを生産した切込焼の創業年については諸説ありますが、染付筒茶碗(仙台市博物館蔵)に記された記念銘が「天保6年(1835)」ですのでこの頃だともいわれています。そうすると、会津本郷焼よりも磁器生産の開始が遅かったと考えられます。
また、切込焼と類似する製品を焼いていて密接な関係にあった山形県山形市の平清水焼(ひらしみずやき)は、文化年間(1804~1817)に開窯されたといわれていますが、定かではありません。
この平清水焼は当初磁器を焼いていましたが、その後陶器に変わっていきます。
これらのことから、会津本郷焼と切込焼と平清水焼は関連性をもっていたと考えられますが、いずれも資料が少ないため推測の域を出ないままです。事実が判明し次第こちらに追記していきます。
また、平清水焼と知る人ぞ知る切込焼に関してのお話は、近いうちにと考えています。

会津本郷焼で碍子の生産

明治23年(1890)には碍子(ガイシ)の製造が始まり、これが明治27年(1894)から始まって翌年に終わった日清戦争の特需で生産に追われていきます。
碍子とは、電線を電信柱などに絶縁して固定させる器具です。電信柱を見ると白い磁器製の器具が付いています。あれが碍子です。
戦地での需要増によって陸軍省から矢のような納品催促があり、磐越西線が開通していない当時、日本鉄道の駅がある郡山までの15里(約58.5km)をほぼ徒歩での納品でした。豪雪で苦労したとのことです。
その後、高圧碍子の製造販売が成功したりしますが、大正5年(1916)5月12日12時50分過ぎに本郷町大火災が発生し、町は灰燼と化してしまいます。戊辰戦争以来の致命的な打撃になってしまいました。
この時に熟練の職人が、京都、美濃、四日市、肥前などに転出してしまっています。
追い打ちをかけるように、大正9年(1920)には、第一次世界大戦後の経済恐慌によって、一大碍子製造会社を設立する計画が無くなってしまいます。

会津本郷焼の太平洋戦争から戦後

国策会社の東北窯業株式会社が設立されます。
戦後は進駐軍によって、軍需工場取扱いの規定を受けてしまい、60万円の現金返還と80万円にのぼる未収金の回収を放棄させられます。
昭和25年(1950)には、12の工場からなる「会津碍子事業協同組合」が設立されています。
翌年には朝鮮戦争の特需によって、碍子の製造が一時的にさかんとなりました。
昭和33年(1958)、ブリュッセル万国博覧会で「にしん鉢」がグランプリを受賞しています。
にしん(鰊・ニシン)鉢は「ニシンの山椒漬け」を作る長方形の器で、身欠きニシンと山椒の若葉を交互に、醤油・酢・酒もしくはポン酢などで作るタレに数日から2、3週間漬けたものです。
昭和38年(1963)には、東北窯業株式会社の赤字が3千数百万円となり閉鎖となりましたが、まもなく、会津碍子株式会社が買い取りをしています。

会津本郷焼の現代

平成29年(2017)現在、会津美里町の観光ポータルサイトによると、会津本郷焼事業協同組合に加盟している窯元が14軒紹介されています。
そのなかで富三窯だけが磁器を焼いています。
冬の夜の会津若松市市内
冬の夜の会津若松市市内

本郷せと市

8月の第1日曜日には、本郷地域の瀬戸町通りで「本郷せと市」が開催されます。
詳細は会津美里町のポータルサイトでご確認ください。
高速道路を利用する場合は、平成28年(2016)のパンフレットによると、磐越自動車道の会津若松インターチェンジから約30分、新鶴スマートインターチェンジからは約20分掛かるとのことです。なお、新鶴スマートインターはETC車載器搭載車専用ですので注意が必要です。
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗の高台銘
会津本郷焼窯元紋平窯「流紋焼」 の抹茶碗の高台銘

以上、概要をかいつまんでのお話になりましたので、さらに詳細は後日と致します。



参考・引用文献
     : 会津本郷陶磁器業史編纂委員会 1969『會津本郷焼の歩み』, 福島県陶業事業協同組合
     : 会津若松市 2000『会津のやきもの [須恵器から陶磁器まで]』会津若松市史14 文化編1 陶磁器
     : 会津若松市教育委員会 1984『蚕養窯跡発掘調査概報(1)』会津若松市文化財調査報告第10号
     : 会津若松市教育委員会 2000『蚕養窯跡発掘調査報告書』会津若松市文化財調査報告書第15号
     : 会津若松市教育委員会 2015『蚕養窯跡』会津若松市文化財調査報告書第146号
             : 青柳栄次 1999『全国焼き物体験』, 株式会社昭文社
     : 小川啓司 1974『そば猪口絵柄事典』, 株式会社光芸出版
     : 黒田一哉 1988『図鑑 日本やきもの巡り』, 株式会社光芸出版
             : 古賀 孝 1974『切込焼』, 株式会社雄山閣
     : 芹沢長介 1978『宮城県加美郡宮崎町切込西山磁器工房址 切込』東北大学文学部考古学研究会 考古学資料集 別冊1
             : 東北大学埋蔵文化財調査室 2017『仙台城跡二の丸第18地点』東北大学埋蔵文化財調査室調査報告6
             : 東北陶磁文化館 1987『東北の近世陶磁』
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 松岡寿夫 2003『藍のそば猪口700選』, 株式会社小学館
     : 松宮輝明 1985『福島のやきものと窯』, 歴史春秋出版株式会社
     : 宮城県文化財保護協会 1990『切込窯跡 近世磁器窯跡の調査』宮崎町文化財調査報告書第3集
     : 料治熊太 1973『そば猪口』, 河出書房新社
       : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992『日本のやきもの8 薩摩・民窯』,  株式会社講談社
     : 渡辺到源 1975『ふくしま文庫15 会津の焼物』, FCT企業
管理者 : Masa
このエントリーをはてなブックマークに追加

人気の投稿