2016年11月28日月曜日

薩摩焼の窯場2

竪野系・苗代川系・龍門司系・元立院系・薩摩磁器系・能野(よきの)系

近世(江戸時代)の薩摩焼の窯場は6系統存在します。

苗代川系の窯場 

前回は竪野系の窯場についてのお話しでしたので、今回は苗代川系の窯場についてです。
慶長3年(1598)に現在の、いちき串木野市島平に朝鮮人陶工達が上陸し、その後、下名において単室登り窯の串木野窯を開いています。
慶長8年(1603)には、苗代川(鹿児島県日置郡下伊集院村に存在した大字名。現在は、日置市東市来町美山。)に移り住んだと伝えられています。
苗代川では、元屋敷窯、次に堂平(どびら)窯が開かかれています。

下の写真は苗代川の薩摩焼窯元、渡来陶工後裔の荒木陶窯の花瓶です。高さは約25cm。とても繊細な絵付けで見事です。
「苗代川焼」は荒木陶窯の登録商標ですが、苗代川焼伝統保存会の会員には商標の使用を無料にて許可しています。
白薩摩 鶴首花瓶-秋草
白薩摩 鶴首花瓶-秋草

元屋敷窯 

窯跡は単室の登り窯で、窯が開かれた年は不明ですが、慶長9~11年(1604~1606)年頃のようです。
製品は黒もんが主で白もんを僅かに焼いていたと考えられています。

堂平窯 

窯跡は単室の登り窯で、規模は長さ約30m、幅約1.2m。
焼かれていた陶器は、黒釉・褐釉の甕・壷・擂鉢(すりばち)等の大型日用品が主体で、甕・壷の厚みは薄くて、内面には整形時の当て具痕がみられます。また、白薩摩も焼かれていた可能性があります。
焼成の際、製品の重ね焼きで製品と製品が引っ付くのを防ぐために、二枚貝(サルボオ・ハイガイ・ハマグリ)等の貝を間に挟む特徴があります。なお、串木野窯跡でも同様な技法がみられます。
江戸時代後期には、色絵の陶器や磁器の生産が開始されていまして、後の金襴手製品に繋がっています。
なお、窯跡は南九州道建設に伴い移設保存(日置市東市来町美山1142)されていますので見ることができますね。


五本松窯 

寛文9年(1669)、鶴丸(鹿児島)城下に居住の朝鮮人達を苗代川に移住させたのに伴い、窯が開かれたと伝えられていますが、それより時代が下る窯のようです。
窯跡は単室の登り窯で陶器を焼いていて、規模は長さ約30m、幅約1m。
日置市東市来町美山498-2、500に所在。
重ね焼きの技法は「土目(器どうしが溶着しないように耐火性の団子状の土を挟む)」を用いています。

笠野原(かさんばい)窯 

宝永元年(1704)に苗代川の人々を現在の鹿屋市笠之原(かさのはら)町に移住させ、そしてその後、単室の登り窯の笠野原窯が開かれました。全て黒もんの日用品を焼いていたようです。

御定式(ごうじょうしき)窯 

県指定史跡の「美山薩摩焼窯」で連房式登り窯。
寛延年間(1748~1750)に築かれ、当初は御物窯と呼ばれていましたが、明和元年(1764)に御定式窯と改名され、明治元年(1868)に廃止されています。
製品は白薩摩や鉢・皿・碗・土瓶、染付の磁器製品も焼かれています。なお、染付磁器では顔料がコバルトのものがありますので、明治時代になっても窯が存続していたことを物語っていますね。

東・西打通(うつとうし)窯 

単室の登り窯で、御定式窯と同様に寛延年間に築かれています。
甕・土瓶・擂鉢等の日用品を焼いていました。

ウチコク窯 

時代が下って19世紀半ば、弘化3年(1846)の石碑が存在するのでその頃に築かれた窯で、連房式登窯です。東打通窯の隣に存在します。明治12年(1879)頃に役割を終えたと考えられています。
重ね焼きの技法は、「コマ(平らな小さい方形の陶板)」を器と器の間に挟み、器どうしが溶着しないようにしています。
白薩摩 鶴首花瓶-秋草文様
白薩摩 鶴首花瓶-秋草文様
白薩摩 鶴首花瓶の口縁、ここにも繊細な絵付けが。
白薩摩 鶴首花瓶の口縁、ここにも繊細な絵付けが。

苗代川系では、現在も窯元が多く存在しています。窯元巡りなど良いですねぇ。

次回の薩摩焼についてはこちらから。
前回の薩摩焼についてはこちらからどうぞ。








参考文献 : 沈 壽官・久光良城 1986 『薩摩 日本のやきもの 1』, 株式会社淡交社
     : 日本歴史大辞典編集委員会 1973 『日本史年表』, 株式会社河出書房新社
     : 矢部良明・水尾比呂志・岡村吉右衛門 1992 『日本のやきもの8 薩摩・民窯』, 株式会社講談社
     : 渡辺芳郎 2003 『日本のやきもの 薩摩』, 株式会社淡交社
     : 渡辺芳郎 2012「近世薩摩焼の生産と藩外流通」『江戸遺跡研究会会報 No.133』江戸遺跡研究会
管理者 : Masa
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