2016年10月20日木曜日

伊万里

伊万里(焼)

伊万里
大川内山を訪問

陶磁器などの焼き物は地名から○○焼と名付けられ産地の特定が出来ますが、一般的に江戸~明治時代の伊万里(焼)は広い範囲・地域での産地としてしか分かりません。例外として、プロ・鑑定士・目利きの愛好家や骨董屋さんが調べれば磁器が焼かれた窯の特定まで出来ますが。昨日の記事でこのことを簡単に述べましたが、今回は少し詳しくその訳をみていきます。
様々な書籍・WEB上に書かれている磁器生産の始まりについては、豊臣秀吉の朝鮮出兵から話が始まっています。
朝鮮半島から技術者を連れ帰り、その技術を導入して磁器生産を開始することが可能になった。云々。と。
残念ながら当時の日本には磁器生産の技術が無かったのですね。
そして、江戸時代初期の1610年代に日本で初めての磁器生産が肥前国有田(現、佐賀県有田町)で始まりました。更に現在の長崎県波佐見町等の周辺地域に早くから生産地が拡大していきます。波佐見町は有田町の南に接していますから、当時早々に革命的新技術の拡散が進んだと思われます。
現在の中国等から輸入するしかなかった磁器。土器・炻器・陶器に新たに加わった磁器への興味は強く、磁器の原料である陶石、しかも良質なものから特産品が創られた喜びは大きいことだったのでしょう。




伊万里焼の定義

さて、伊万里の定義というと、出荷港の伊万里港から名付けられたので「伊万里」です。前述したように、磁器は有田町周辺の地域で生産され、しかもこの地域でのみ長い期間生産され続けたことから、消費地では磁器=伊万里(今里、今利)で構わなかったのではないでしょうか。それは、肥前以外で磁器の生産が始まるのは瀬戸で約200年後と、かなり間があったからだと考えられます。
ただし、17世紀末~18世紀初頭から波佐見等で焼かれた粗製磁器・日常食器である「くらわんか」の呼称については、伊万里から枝分かれして独自に「くらわんか」として流通していったのでしょう。そんな事実もあります。
現在では江戸・明治時代の伊万里の産地を表すのは肥前磁器です。大きく地域を捉えている呼称です。なので、美濃焼・瀬戸焼のように肥前焼とすれば分かりやすかったのではと思ったりします。
時代が下って明治時代以降になると、海送から陸送に代わっていき、伊万里市域で焼かれたものは有田焼と分かれて、伊万里焼と呼ばれるようになっていったそうです。
伊万里鍋島焼・鍋島焼については別の機会に考えることにします。
この時期あたりに、伊万里から波佐見焼も分かれたのでしょうか?
次回は波佐見焼について考えてみます。







参考文献 : 大橋康二・鈴田由紀夫・宇治 章・宮原香苗 2007 『古伊万里入門 珠玉の名陶を訪ねて-初期から爛熟期まで-』, 佐賀県立九州陶磁文化館コレクション 株式会社青幻舎
管理者 : Masa
このエントリーをはてなブックマークに追加

人気の投稿